「ニュース・キャスターであった父、TV番組への愛情、そして社会的現状への大きな批判的態度を込めてジョージ・クルーニー監督が描く、自由と報道のために戦った人気ニュース・キャスター エド・マローの物語」
歴史は繰り返すというのは言い過ぎかもしれないが、過去に起きた出来事が現在の出来事、流れに類似していると感じることは多い。だからこそ、我々は歴史を学ばなければならないと誰かが書いていたが、そうしたことを痛切に感じる出来事が確かに多くなってきているように思える。今回紹介する『グッドナイト&グッドラック』もそういった歴史的な重なりを感じさせる作品になっている。
この作品が描くのは1950年代もアメリカに吹き荒れた“赤狩り”である“マッカーシズム”に対して闘い続けたジャーナリストたちの物語である。最初に映画や小説などの中で人の思考を揶揄するときに使われたりもする“赤”という言葉、現代史の中で勉強しているだろう“マッカーシズム”について、簡単に触れておきたい。“赤”とは共産主義者やそのシンパを意味している(その意味は旗の色からきている)。また、“マッカーシズム”とは1950年から1954年までのほぼ5年間にアメリカで起こった“赤狩り”を指している。その名は「国務省に205人の共産主義者が働いている」という爆弾発言をし、この動きを先導したジョゼフ・レイモンド・マッカーシ上院議員から取られている。この背景にあったのは米ソによる東西冷戦なのだが、“マッカーシズム”は政府内だけでなく、映画界、財界など幅広い分野に波及し、人々を恐怖に陥れた。マッカーシー上院議員の告発は捏造であり、アメリカという国に大きな傷を残したが、同時に保守的な土壌を固めたという意見もある(ロバート・デニーロ主演による『真実の瞬間』はこの“マッカーシズム”下による映画業界の混乱と抵抗を描いた秀作だ)。
この作品の主人公はエド・マローという1930年代から50年代にかけて全米で最も高い人気を誇ったニュース・キャスターである(ただ、ここでは日本でいうニュース・キャスターではなく、独自の語り口で時事解説をする“アンカーマン”とした方が適切だろう)。米国の三大ネットワークのひとつであるCBSでラジオ時代から活躍したエド・マローは1950年代に「シー・イット・ナウ」という報道番組で全米の顔的な存在になり、CBSも“報道のCBS”という位置を確立していく。しかし、TVメディアがより大きくなり、必然的に利益主義に走る中で、エド・マローは自らの居場所を失っていくことになる。ここはこの作品の大きなテーマにもなっている。
物語は1958年にエド・マローをゲストに開催された報道番組制作協会のパーティのシーンから始まる。大きな拍手を持って迎えられる彼は現在のTVが抱える問題について「TVは現実を隠している」と語り始める。そこから物語は1953年の「シー・イット・ナウ」製作の現場へと入り込んでいく。そこではこの番組のスタッフたちが映写機から投影されたマッカーシー上院議員の映像を細かくチェックし、新聞の記事などをもとに意見交換をしている。彼らはマッカーシー上院議員の欺瞞を突こうとしているのだ。スタッフたちは空軍で働く男が“赤”ということで解雇されようとしている情報を手に入れ、彼への取材を行い、番組で大々的に放送する。この放送は全米に大きな波紋を投げかけるが、エド・マローらスタッフと番組も追い詰められていく。
この作品は初監督作品『コンフェッション』で圧倒的な評価を獲得し、役者、プロデューサーとしても大活躍するジョージ・クルーニーの監督第2作目である。彼はエド・マローのことを「わが家のヒーローだった」といい、この作品についてニュース・キャスターだった父へのラブレターでもあり、「情熱から作った、どうしても撮りたかった」と語っている。また、この作品はTVの現状批判ではなく「議論をすることが目的で、是非を問うものではない」とも語っている。父へのラブレターであると同時に、TV(番組)へのラブレターにもこの作品はなっているのだ。
モノクロの映像、マッカ−シー上院議員の映像など当時のフッテージをふんだんに盛り込み、場面の転換にダイアン・リーヴスによるジャズ(選曲も示唆的になっている)を挟み込みながら進んでいくこの作品はエド・マローをはじめとする「シー・イット・ナウ」のスタッフたちがマッカーシー上院議員を追い詰めていく様子を社内の緊張関係を通し、非常にオーソドックスかつ丁寧に描いていく。自分たちの職務をかけ「自由主義の顔をして他国を歩くのはいいが、自国の自由をなくしてどうするのか」とエド・マローは訴えかける。その余波は議会での「共産主義者」という中傷、スポンサー離れという状況にまで繋がっていく。TVはより高い視聴率を求められる箱へと変わりつつあり、予算と番組制作品のバランスを求められるようになっていた。「シー・イット・ナウ」のような調査報道番組はコストがかかりすぎ、視聴率も伸びない。その末路は自ずと分かるだろう。作品の最後のシーンはエド・マローによる冒頭の基調演説に戻る。そこで彼は「ゴールデンタイムに皆が教育について語り合う番組があってもいいではないか」と語る。それは現実的には不可能だが、真実を考え、伝えるというジャーナリズムとしてのTVにとっては本筋でも理想でもある。だからこそ、このパーティのシーンはどこか虚しさに覆われているのだ(もし、エド・マローが生きていたら、ケーブルTV、インターネットなどにより多角化したTVメディアをどのように考えただろうか)。
そしてもうひとつ。“マッカーシズム”と現在とのリンクについてだが、これはアメリカの「愛国法(Patriot Act)」という個人や団体の思想などを監視できる法律に重なっている。アメリカ人はこの個人の自由を侵す可能性の高い法律に戦々恐々とし、“マッカーシズム”と同じ状況になるのではないかと考えている(実は日本も他人事ではないのだが)。
ジャーナリズムの関心のある方が必見であることは間違いないが、エド・マローの信念、ジャーナリズムの内幕ものとしてもより幅広い層の方に観て、楽しんでもらえる作品だと思う。ぜひ、劇場に脚を運んで下さい。 |