「主演、音楽、脚本ボブ・ディラン。どこかの国の現実とも符合する世界を彼は傍観し、歌い続ける、正にディランの世界的な作品」
ロックと映画の関係はとてつもなく深い。サウンドトラック、ライブなどのドキュメンタリー、ミュージシャンが主役となったもの、曲からテーマをつむぎだしたものなど本当にたくさんのものがある(ロックで括った映画を集成した本も出版されているし、ロック・ミュージシャン自身にも熱狂的な映画ファンが多い)。今回紹介する『ボブ・ディランの頭のなか』はタイトルがずばりと語るように正にその手の作品である。
ボブ・ディランの名前を知らない人はまずいないと思う。でも、意識して曲を聴いたことのない人は意外に多いのではないだろうか。ボブ・ディランは今年64歳になった。1960年代のNYのグリニッジ・ヴィレッジのフォークシーンから頭角を現し、「風に吹かれて」、「時代は変る」などのメッセージ性の濃い曲でプロテスト・フォークの旗手として圧倒的な支持を受けたディランはバンドを従えた、よりロック色の強いサウンドへと移行していく。この時期に生まれたのが「ライク・ア・ローリング・ストーン」などの名曲、「ハイウェイ61」、「ブロンド・オン・ブロンド」などの名盤だ。彼のこうした動きはフォーク・ロックというスタイルにつながるのだが、当初はファンから大きなバッシングを受ける。その後、一時的に隠遁状態になることもあったが、問題作を含む多くの作品を発表し、現在も途切れないライブを中心に勢力的に活動を続けている。
日本でもディランの影響を受けている方々は本当に多い。ミュージシャンはもちろん、みうらじゅん原作(彼自身がディランの熱狂的なファンでコレクターだ)、田口トモロヲ初監督による『アイデン&ティティ』には主人公の前に神様としてのディランが出てくるし、1978年の初来日は社会現象とまでなっている(ライブ盤も発売されたし、その模様を描いたNHK特集もあった)。さすがに現在の日本ではそういうこともなくなったが、アメリカではメディアへのインタビュー出演がとてつもない話題となるし、昨年末に出版された自伝の第1弾はベストセラーを記録している(先日、待望の翻訳版も出版された)。本人は「自分は普通の人間だ」と語っているが、その影響力は本当に計り知れず、ビートルズ、デューク・エリントンらと並ぶ20世紀を代表するミュージシャンであることは間違いない(また、その詞の世界はロックの世界の住人として初のノーベル賞(文学賞)を獲得するのではないかと言われ続けている)。
この『ボブ・ディランの頭のなか』はそんなボブ・ディランが主演し、脚本にまで関わった作品である(クレジット上の脚本は変名である)。原題は『Masked
and Anonymous』(“顔を覆い、匿名で”という意味合いだろう)。その原題どおりなのだろうか、ここでのディランはジャック・フェイトというミュージシャンを演じ、数多くの曲を披露している。物語の舞台は内戦に翻弄され、独裁的な政治状況下にある小国。ここでチャリティー・コンサートが企画される。マネージメントをする人間は様々なアーティストを呼ぼうとするがどれも実らない。そこで彼が白羽の矢を立てたのが以前マネージメントをしていたジャック・フェイト。現在は牢獄にいる彼はこのコンサートのために釈放され、この国を移動しながら、コンサートに向かっていくという内容だ。挿入されるディランのライブ・シーン、彼の達観したようなルックスとそのセリフなどディランのファンにとってはたまらない魅力に満ちているが、ディランの出演、脚本に飛びついた出演者もジョン・グッドマン、ジェフ・ブリッジス、ペネロペ・クルス、ジェシカ・ラング、エド・ハリス、ヴァル・キルマー、ミッキー・ローク、クリスチャン・スレイターなど本当に豪華な面々。低予算なのにディランというだけで飛び込んだこの面子だけでも映画好きにとっては魅力ではないだろうか。監督はこの作品がデビュー作となるラリー・チャールズ。元々は別のTV企画としてディランとの作品を撮る予定があったが、それが立ち消えとなり、この作品のディランの主演に繋がっている。デイラン自身も作品には大いに乗り、様々なアイデアを持ち込み、信じられないことにサンダンス国際映画祭でも舞台挨拶に立っている。
作品のテイストをどう受け取るか、気に入るのか、気に入らないのかは大きく分かれる作品だろう。政治的混乱に揺れる国、貧富の差も大きくどうしようもない国民の生活、チャリティー・コンサートで泡銭を手に入れようとしているマネージャーなどの登場人物の中をディラン扮するジャック・フェイトは移動し、見続けている。彼らには自分たち以外の世界はマスクをはめられたように隠されている。それはこの国を支配している連中も同様だ。そこにあるのはどこかの国の現実への皮肉のようである。そして、それはまるでディランの歌の世界のようでもある。常に自分(達)の“自由”というものを歌ってきたディランがここで描こうとしているのもそういうことなんだろうと僕には思える。それは俺は今までどおり何もにも煩わされずにやっていくぜという態度だ。だから、この国のどうしようもなさには頭に来るがそれは二の次だし、「なんでウッドストックに出なかったのか」などというジェフ・ブリッジス扮するジャーナリストによるインタビューもどうでもいいのだ。
実はこの作品は2003年にアメリカでは公開されている(様々なアーティストのカバーが収録されたサウンドトラックは当時、それなりに話題になったがオープニングで真心ブラザースが流れるのにはやはり驚いた)。この年からディラン自身の過去の作品が再度リマスタリングされ、発売されたり、翌年には自伝が発表されたりと変わらぬ精力的な活動の中でちょっとした“まとめ”に入ってきているのかなという気がしないでもない。この作品もそのあたりと合わせて捉えてもいいのではないだろうか。ディランのファンはもちろん、映画ファンはこの作品をきっかけにディランに入っていくのも手だろう。なんでこの俳優たちがディランに魅了されるのかが分かるかもしれない。ぜひ、劇場に足を運んでください。
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