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写真01
■記者会見会場にて

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■記者会見会場にて

写真03
■劇中場面写真

“『親切なクムジャさん』はイ・ヨンエさんの映画です”

 10月7日東京都内のホテルにて『親切なクムジャさん』の監督であるパク・チャヌク監督の来日記者会見が行われた。日本では公開時期が前後したが、『復讐者に憐れみを』(2002)、カンヌ国際映画祭で審査員特別グランプリを受賞し、日本でも大ヒットした『オールド・ボーイ』(2003)に続く、“復讐3部作”の最終章である『親切なクムジャさん』(2005)の公開を目前にして、韓国国内のみならず世界が注目する映画監督の来日であったため、会場には多くの取材陣が詰め掛けた。監督の来日は『オールド・ボーイ』の時以来となる。
  黒のTシャツの上に黒いジャケットを羽織ったパク・チャヌク監督は登場時から終始穏やかの表情で、一つひとつの質問に対し、考えながら丁寧に答えてくれた。とにかく、その回答の丁寧さ、深さには感嘆すべき部分もあった。
 当日の記者会見の内容は以下の通り(質問内容、回答などは読みやすくなるように手を加えています)。

パク・チャヌク監督:『オールド・ボーイ』の時に皆さんにご挨拶させていただいたのが昨日のことのように思い出されるんですけれども、新作でこうしてまた皆さんにお会いすることが出来て嬉しく思っています。皆さん、その間、お元気でしたか。この『親切なクムジャさん』は日本でイ・ヨンエさんの人気が高まっているタイミングで公開できて、幸いだと思っています。また、韓国を代表する素晴らしい女優の新作を紹介することが出来て非常に嬉しく思っています。

MC:復讐3部作のそれぞれの作品との一番の違いはどういうところでしょうか。

パク・チャヌク監督:復讐3部作の1作目の『復讐者に憐れみを』は非常に政治的な内容を含んでいます。それは韓国社会、あるいは資本主義社会が抱えている階級という問題、その階級を巡る葛藤を描いているといえます。
  2作目の『オールド・ボーイ』には政治的な影は全く入っておらず、非常に神話的な内容になっています。その中には人間の根底にある、非常に根本的な欲望が描かれています。
  そして3作目の『親切なクムジャさん』は女性が主人公ですので、当然のことながらこれまでの2作品とは全く違った描写になっています。女性が主人公であるだけに暴力描写は非常に優雅なものになっています。この作品の暴力は非常に崇高で高尚な目的のために使われるものです。そして、怒りと暴力の世界を超えて、主人公はより高い次元を目指しています。つまり贖罪と救いの道を求めているのです。
  しかし、今お話したような難しい内容はやめて、簡単に説明してくれと求められたら「1作目はソン・ガンホさん、2作目はチェ・ミンシクさん、3作目はイ・ヨンエさんの映画」という風に要約できると思います。私は立派な俳優さんたちの魅力を発見して、その俳優さんたちと交流しながら、お互いに分かり合って映画を作るというのが、この映画監督という職業の最もやりがいのある部分だと考えていますので、俳優さんたちの力を引き出すことにエネルギーを注ぎ、努力を積み重ねてきました。

MC:監督はイ・ヨンエさんとは『JSA』でもご一緒していますが、イ・ヨンエさんの魅力はどのようなところにあるのでしょうか。

パク・チャヌク監督:イ・ヨンエさんは韓国の全ての女優の中でも完璧な美しさを持っているといわれています。これまで多くの撮影を手掛けてきた照明や撮影を担当するベテランのスタッフからお話を聞いても、彼女の顔を見るたびに感嘆してしまうという言葉が多く出ます。私はルックスの美しさというのは大切ですし、女優、俳優というのはルックスが一番大事だというのは否定できないと思います。しかしながら、イ・ヨンエさんはそれ以上のものを持っていると思います。彼女は撮影に望むときに本当にたくさんのものを準備し、実際に多くのことを考え、自分なりにいろんな条件環境を整えながら現場にやって来てくれます。作品ではイ・ヨンエさんという個性が誇張して映画の中に登場するのではなく、演じるキャラクターに完全に同化してもらうようにしています。
  もうひとつ彼女について言えるとしたら、決して美しさを誇示しないということ。そのことにも魅力があると思います。

質問1:日本の韓流ブームについてはお知りだと思いますが、日本でこのブームが続いている理由を韓国の映画人としてどのように考えますか。

パク・チャヌク監督:お答えすることが非常に難しい質問ですね。というのは日本での韓流ブームというのは主にTVでの連続ドラマから起こったと思われるからなのです。私は韓国人なのですが、実は韓国のドラマを全く観たことがないのです。ドラマどころかTVも全く観ないのです。だからその実態というのはほとんど知らないですが、おそらく映画にしろTVドラマにしろ登場人物の感情表現というのがとても強烈なのだろうと思います。感情表現も激しいので、それが刺激的になります。またそういう演技を得意とする俳優さんたちもいます。こういった部分が日本の皆さんの心に触れて、響き、届いたのかなと感じています。そういった結果がアピールしてこのブームがあるのかなと思っているのですが、この回答は自信がありません。
  今、このようにお答えしてからちょっと考えてみたのですが、このブームの代表作となるペ・ヨンジュンさん主演のTVドラマ(「冬のソナタ」)は私が知る限りではそれほど激しい感情表現がないと聞いています。そうなると先ほど私がお話したことと違いますので、適切な答えではないかもしれません。

質問2:今回のヒロインのクムジャは全くの無実の罪で恨んでいるというのとはちょっと設定が違い、自分自身の罪の償いというのが復讐のひとつのエネルギーになっていると思います。このようにあえて全くの無罪でないヒロインを作り出した理由を教えてください。

パク・チャヌク監督:非常に鋭いご指摘をしていただいたと思います。確かに今回のこの作品でクムジャが復讐をたくらむ、その動機は他の復讐劇とはちょっと違うものがあると思います。彼女の復讐の動機というのは非常に弱いのです。彼女に関わる人物が直接に死んでいるというわけでもないですし、娘を奪われたといってもまた再会できています。そして正にその点こそが私がこの映画を作るか、作らないかを考えた時点で非常に勇気を与えてくれることになりました。もし、強い動機を与えるとしたらそれは簡単なことで、例えば、母親や娘を殺されるという設定にすればよかったのですが、そこをあえて非常に弱い動機に設定しました。それはクムジャがそれ程、罪の意識に敏感な人物だということを表現したかったからです。
  台詞の中でも少し触れているのですが、(犯人が復讐される理由は)自分を罪人にした罪があるからと彼女は考えています。そして少年を誘拐し、殺してしまったということに対しては非常に心を痛めています。彼女は私的な恨みとかで復讐をしようというのではなく、あくまでも非常に論理的な側面から復讐をしようと考えている女性です。こういった部分から、ただ怒りや感情に任せて復讐をしようとしているのではないという面を映画のテーマとしてうまく打ち出せるのではないかと考えました。
  更に整理して話しますと、彼女が行っている復讐というのは怒りを収めようとしているのではなく、あくまで贖罪の意味における復讐だというということです。その点、数ある復讐劇の中でも差別化される作品になるのではないかと考えています。

質問3:雪のシーンが非常に印象的な作品でした。私自身はフェデリコ・フェリーニ監督の作品『アマルコルド』の雪のシーンを思い出したのですが、監督にとってこの作品の雪のシーンにはどのような意味があり、また何かインスパイアされるものがありましたか。

パク・チャヌク監督:日本ではフェリーニ監督の作品とこの作品の雪のシーンを比較される方が結構いました。不思議なことにフェリーニ監督の出身国であるイタリアではそういう指摘を聞くことはありませんでした(『親切なクムジャさん』はヴェネチア国際映画祭に正式出品され、3部門を受賞している)。私はその作品を観たことはあるのですが、この映画を作るときには全く考えていませんでした。
  実はその作品ではなく、模倣していると指摘されるのではないかと心配している別の作品がありました。それはこの作品の最後、オーストラリアでの撮影の合間に近くのDVDショップに行って「何か面白いものがないかな」と探していた時に見つけた日本の映画です。その作品のパッケージには「この映画はタランティーの『キル・ビル』に非常に影響を与えた」という解説のシールが貼ってあったので見てみたのですが、最初に雪が降って、女性が主人公でその女性が復讐をするというこの作品によく似た内容でした。すぐに「これは大変なことになった。日本の方がこの作品を観たときにその作品の真似をしたと思うのではないか。」と心配になりました。映画のタイトルは『修羅雪姫』といいます(注:藤田敏八監督、梶芽衣子主演による1973年の作品)。ただ、『アマルコルド』にしても『修羅雪姫』にしても全く今回の作品の参考にはしていません。特に『修羅雪姫』は作品の最後の頃(完成直前)に見ただけなのです。
  私がこの作品で雪に込めた意味はただひとつ、贖罪の意味です。雪の白い色のように浄化されたいという気持ちの象徴として登場させました。

質問4:監督は復讐3部作により、世界的に復讐の権威として名を馳せていらっしゃいますが、個人的なトラウマのようなものがあり、この復讐をテーマとして選んでいらっしゃるのでしょうか。個人的なトラウマがあるようでしたら、この3部作を作ることで自身の変化はあったでしょうか。また、トラウマがないようでしたら、このようなテーマを選んだ理由を教えてください。

パク・チャヌク監督:動機はありますが、それぞれを見れば大したことはありません。皆さんもそうだと思うのですが、誰でも生きていれば、大なり小なり心の傷を負うと思います。私は肉親を殺されたということはありませんが、小さな侮辱などは結構受けています。そのたびに一応、怒ることは怒るのですが、結局はその場で我慢をしてしまいます。私が他の人と性格的に違うことがあるとしたら、怒ることは怒るのですが、それを他人には向けない、他人に向かって怒ったことがないということです。その場で我慢をしてそれが溜まっていく。それが溜まってしまうと、夜、寝る前に横になって「どうしてあの時にあの場所で相手をなじったり、殴ったりしなかったのだろう」などとあれこれ考えるようになり、その気持ちがだんだんと大きくなって「どう復讐しようか」と想像するようになります。
  これはひとつの例なのですが、ある記者がどうしてもインタビューをしたいというので私も多忙な中、何とか時間を作って協力しました。その記者は「いやー、監督、この作品は傑作ですね」、「監督のことを尊敬しています」とインタビューの際には言っていたのに、実際の記事では「監督は酷いものを作った」とけなしているんですね。こんな風に私のことを攻撃したりとか、非難したりという記事を見たときに私は「どうやってこいつをいじめてやろうかな、殺してやろうかな。この人にはこんな方法がいいかな」と考えるようになります。
  今の話の中で皆さんに理解していただきたいのは、私の作品をけなしたり、非難したマスコミの方々全員に全てそういっているのではなく、目の前でほめておきながら、違うことを書く方々に向けたものであるということです。
  そして、頭の中で創造するという行為は肯定的な役割を果たすとともに、精神衛生上とても良いのではないかと私は思います。確かに頭の中で考えていることは残忍な映像かもしれませんが、それが想像だけで終ってしまえば、全く残忍でないと思いますし、頭の中で色々と想像すること、それを楽しむということは自然なことです。そして実行に移すのを遅らせるということに心の安らぎを見出せると思います。想像することで残忍な行為を思い浮かべることができ、安らぎを見出せ、その実行を死まで、墓場まで持っていくというのがベストではないかと私は思います。
  もし、皆さんが残忍な復讐の行為を想像するのなら、私の作品を役立てていただければと思います。私の作品の中には復讐の苦痛によりあえいでいるというシーンもありますので、必ずや役に立つと思います。

MC:監督が寝る前に考えていることが、こうやって映画の内容となっているのですか。

パク・チャヌク監督:そういう時にアイデアを得ることもありますが、それ以上にインスピレーションを得る状況があります。普通、作品を想像するとなると、殻の中に閉じこもって孤独に作業している、インスピレーションが浮かぶのを待っている、そんな芸術家の姿を想像するかもしれませんが、私のやり方は全くそうではありません。逆に仲間たちと話をしている中でインスピレーションを得られることがすごく多いのです。それは単なるおしゃべりや雑談なのですが、そういった中でひらめくことが多いので、私は作品の脚本を書くときは必ずひとりでは書かないようにしています。一緒に脚本を書いてくれる人は必ずしも天才的な脚本家でなくてもかまいません。話し相手になってくれればいいのです。話し相手がいるとお互いに質問をしあうことで色んなインスピレーションが浮かんできます。例えば、幾つかのアイデアがある中でどれがいいかと聞くことで、更に新たなアイデアも浮かんできます。そういったやり取りの中から作品の構想が浮かんでくるのです。

質問5:復讐についてもう少し詳しく伺いたいと思います。この作品の中には子供を殺されたなど非常に強い復讐の動機を持っている方々も出てきます。そういった方々の復讐の是非について意見をお聞かせください。

パク・チャヌク監督:クムジャの復讐の動機は弱いものだとお話しましたが、そのように設定したのは本当に強い復讐の動機を持った人々を前にした時に彼女が自分には復讐をする資格がないと思い、その復讐を子供を失った遺族の人々に譲るという(物語的)構造を作りたかったからです。
  作品では遺族の人たちの怒りを正当化するため、子供たちを残忍な手法で殺していくというシーンをあえて見せるようにしました。犯人は本当の悪党で同情する余地のない悪魔のような人物だということを遺族や観客に植え付けたいと思ったからです。ですからそうしたシーンを入れることにより、遺族の怒りは正当化されたわけです。
  その後のシーンでは遺族の集団による犯人の処刑が始まります。ここから私はこの映画における真の問い掛けをしたいと考えました。遺族たちの怒りが正当だからといって、処刑という手段も正当化されるのか。そしてここで用いられている暴力とか殺人という行為は正当なのだろうかということです。これが問い掛けたくて、この作品を撮ったのだといっても過言ではありません。
  あのシーンでは少し気味悪い照明を使用したり、遺族の人たちに同じカッパというユニフォームのように見えるものを着てもらったりしています。そうすることにより、段々と被害者と加害者の境界線をなくしていこうと思いました。そして境界線がなくなっただけではなく、やがてその立場、役割が逆転していくことにも気づくと思います。遺族の人たちが残忍な処刑をする側になりますし、犯人は加害者から被害者の立場に変わっていくわけです。最初は悪魔のように見えた犯人の顔も変わっていきます。暴力、殺人行為の正当性をこのように秤にかけたいと思ったのです。
  この作品の前半には若い頃のクムジャが警察に逮捕、連行されるシーンがテレビの映像という設定で登場します。あのシーンは大韓航空機爆破事件の犯人であるキム・ヒョンヒが連行されている映像を参考にしました。また、子供たちが頭から黒いビニール袋をかけられて殺されるシーンは、アルカイダがテロの人質を処刑するシーン、そのイメージを使用しています。つまりこの作品ではテロというイメージを2回使用しているのです。それは非常に正当な大義名分、非常に崇高なもののように思えるテロという行為にも正当性が本当にあるのかという思いがあるからです。そして、正当と思われる全ての暴力が果たして正しいのかどうかを問い掛けたいと思いました。

 共同記者会見終了後に『親切なクムジャさん』の中でも象徴的な意味合いで使用されている小道具の豆腐を手にしての撮影が行われた。
  読んでもらえば分かると思うが、この共同記者会見の内容はありきたりではなく、相当に深みのあるものになっている。監督が語るように作品自体もイ・ヨンエの魅力に溢れた、最終章を飾るにふさわしい作品になっていると思う。前2作の残忍さがダメだった方にもぜひ観てもらいたい作品だ。

 映画『親切なクムジャさん』は11月12日よりシネマスクエアとうきゅう他全国ロードショー!
作品詳細は こちら で。 

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