「肉体的にも女性になることを目前としているトランスセクシャルの男性、1度の過ちで出来たかもしれない息子、ふたりのアメリカ縦断の旅と成長をコミカルかつハートフルに描いたロードムービー」
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(C)2005 Transparent Films LLC |
2005年のアカデミー賞は賞を独占するほど強い作品がなかったことも大きな特徴だったが、『ブロークバック・マウンテン』、『カポーティ』など一部で“ゲイ映画祭”などと言われるほど、その手の作品がいくつもノミネートされたことも話題となった。今回紹介する『トランスアメリカ』もアカデミー賞にノミネートされた、“ゲイ”をテーマとした作品である。
作品の主人公はLAで女性として暮らす男性。ある日、彼女はNYの拘置所からかかってきた電話に心底びっくりする。電話をかけてきた少年は自分の父親を探しているのだという。その父親は自分だと思い当たる節が彼女にはあった。そして、彼女は保釈金を払い、青年を引き取り、青年を連れて、アメリカを旅することになる。
完全なる男性として生きていた頃に犯した1度の間違いから出来てしまっていたらしい自分の息子、そして今の自分の状況・・・・。テーマとしては良くあるものであるが、これがなかなか面白いものに仕上がっているのだ。
主人公の女性として暮らす男性はウエイトレスなどをしながらこつこつと貯めたお金で自分の最後の男性の証を取り除くための手術を目前に控えている。そんな所にかかってきたのが、あの電話なのだ。彼女は自分のアイデンティティとしての手術を優先しようとするが、セラピストからその過去に立ち向かわなければ、手術への同意書にサインは出来ないと言われ、半ば渋々、少年を迎えにNYへと行く。しかもその旅費と保釈金は彼女が手術のためのコツコツと蓄え続けていたお金から捻出。それでも保釈したらおしまいと考えていた彼女だったが、結局は彼を継父の元まで送り届けていくことになる。
彼女が父親であるとは彼には分からないし、手術を最優先としている彼女自身もそれを明かす気はない。ま、彼を送り届ければ、全てが終わると彼女は思っているのだが、そうはうまくいくわけがない。彼は彼なりに人生の負という部分を抱えており、そこの部分が彼女自身に大きく訴えかけてくるのだ。
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監督はこの作品が長編映画デビュー作となるダンカン・タッカー。初めての短編作品(これも“ゲイ”を素材としている)が高い評価を受け、他の監督作品と共にオムニバス長編作として全米公開された監督はこの作品のきっかけについて「友人である女性(だとずっと思っていた人物)に「手術前の“トランスセクシャル”である」と打ち明けられたこと、その彼女の非常に困難な人生を聞いたこと」をあげている。そうした言葉からはトランスセクシャルとして生きる困難さが描かれている作品ように感じるかもしれない。でも、この作品はそういった部分だけには落ちていかないものを持っている。
それを端的に表しているのが、タイトルの『トランスアメリカ』だろう。このタイトルが意味するのはアメリカを縦断する(NYからLAへ)ということであり、主人公の女性が抱える“トランスセクシャル”(性同一性障害による性転換者)である。そして、国家という枠も超えた個人というものを示唆しているとも言える。そういう点で“ゲイ”というセクシャリティーを持つ人物を主人公としながらも、様々な層に訴えかけるテーマを持っているのだ。
主人公の女性はやたらと丁寧な言葉使い(“look〜”という言い方を好む少年に執拗に注意するシーンはおかしい)や身だしなみ、マナーを大切にしている。カーラジオは常にカントリー・ミュージックであるし、冗談も通じないようなスクエアな人物である。“ゲイ”が主役の作品にある、マイノリティーとしての主義主張的な部分を押し出すことは一切ない。見た目、生活など表面上はスクエアな女性が実は“トランスセクシャル”の男性、社会にとっても身近な家族にとっても全くスクエアではないという設定はこの作品にとっては肝になっているだろう。要するに“トランスセクシャル”であるということを切り捨ててしまえば、彼女は本当に普通のアメリカ人なのだ。
少年は窃盗で捕まり、ドラッグもやるが、その部分に沈殿していこう、はじけていこうとはせず、新たな人生を模索したい感じが、無気力そうな態度からは伝わってくる。実は彼には自らの居場所がない。それゆえにひとつの手立てとして父親を探そうとしているのだ。少年が求めるのも普通であるということだ(それはこれまでの彼の生活が普通でなかったのだ)。
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NYから結果的にLAへと、彼らが旅するアメリカの風景も大きな都市などは映し出されることはほとんどない。小さな田舎町に立ち寄りながら、トラブルを乗り越え、彼らは旅を続けていく。ぼろい中古車、車窓に映し出される風景も広大な自然と多くの小さな町で成り立つ普通のアメリカの姿だ。
そうした旅で彼女と少年は意志を疎通し始め、素晴らしい人との出会いや、彼女にとっては切りたくても切り離せない感情的な行き違いを抱えた家族との再会を果たしていく。それは彼女の両親にとっては信じられない孫との顔合わせともなっていく。
彼女と少年の関係性は少年には分からないにしても親子であるし、“ゲイ”ということで家族から見放されていた彼女の存在もある。そうした部分が結びつき、見えてくるのは、普通であろうが変わっていようが様々な形の家族へのシンパシーである。だからこそ、“トランスセクシャル”でなければ、埋もれてしまうくらい普通の彼女が懸命にならなければならない状況、自分の居場所を探す少年の状況がこちらに沁みこんで来るのだ。
主演は人気TVドラマ「デスパレートな妻たち」でブレイクしたフェリシティ・ハフマン。女性が“トランスセクシャル”の男性を演じるというのも画期的だが、男性が演じるのだろうと思ってしまうほど、彼女の演技は素晴らしい(男性の証もついている)。少年を演じるケヴィン・セガーズも内にこもらざる得ない揺れる気持ちをうまく演じている。
音楽はドリー・パートン(エンディング・テーマの素晴らしさ)、ニッティ・グリティ・ダート・バンドなど全編を普通のアメリカにふさわしいカントリー・ミュージックが彩っている。でも、こうしたカントリー・ミュージックが“トランスセクシャル”や“ゲイ”に大きくフューチャーされるのは大きな冒険でもあったはずだ。
コメディ・タッチのロード・ムービーとして進んでいく中、徐々に主人公たちのあり方に魅了され、応援したくなり、観終わったときには逆にこちらが励まされるような気持ちを感じてしまうような作品だ。何てことはない物語なのだが、その何てことはない部分をこうした形で纏め上げてしまうのは脚本も手掛けた監督の才能だろう。“トランスセクシャル”、“ゲイ”をテーマとしているが、そういった部分だけで敬遠はして欲しくない作品だ。ぜひ、劇場に脚を運んでください。 |