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『島ノ唄』

配給:テレコムスタッフ
オフィシャルサイト:
http://www.telecomstaff.co.jp/shimanouta/
この映画の予告編はこちらから


キャスト スタッフ データ
吉増剛造
島尾ミホ
里英吉
松田栄喜
監督、プロデューサー:伊藤憲
プロデューサー:
   寺島高幸
   大伴直子
   清田素嗣
   城戸朱理
撮影:夏海光造
音響効果:米山靖

2004/日本/ハイビジョン・ビデオ/
1時間33分


イントロダクション
「沖縄、奄美の島々、そこを旅する詩人 吉増剛造の姿から見えてくるもの。島国って何だろうかという監督自身の疑問から始まった、映像、音から感じ取り、紡ぎ出すロード・ムービー的ドキュメンタリー作品」
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(C)テレコムスタッフ
  NHKで「詩のボクシング」が放映される頃には地味ながらもその人気は認知されるものになっていたのだろうとは思うが、1990年代後半辺りから、自らの言葉の表現を詩で行う人が増えてきたように思える。TV放映された「詩のボクシング」はそれまでの教科書に載っていた真面目腐った解釈しか出来ないような詩の概念を大きく変えた。そこにはヒップホップ、ビートニクス、笑いの影響もあった。これらは言葉として発することにより、詩は力強さを持つという、本来のポジションへの立ち返りだったのかもしれない。今回紹介する『島ノ唄』は日本を代表するひとりの詩人を主人公とした作品である。
  その詩人の名は吉増剛造である。詩はもちろん、文学に多少関心のある方や1960年代から70年代に多感な時期を過ごした方ならご存知の名前だろうと思う(ちなみにその時期は詩人の言葉に今以上の力があった)。吉増剛造は新作が出版されれば、今でも新聞などの書評(すでに大きな力はないが)で大きく取り上げられ、大きな書店では平積みで本が販売される詩人である。彼の功績のひとつは自らの声で詩を発したことだといわれている(それ以前は詩は黙読されるものだったのだ)。そしてジャズなどの音楽、絵画などの美術、ダンスなどジャンルを越境したコラボレーションも勢力的に続けてきている。その活動は詩の世界だけではなく、写真や彫刻にまで及び、こちらでも高い評価を獲得している。これらをひと言で表せば、“奇才”となるだろう。ちなみに、私が彼の作品を知ったのは今から20年近く前、近所の図書館に通い、詩集を適当に読んでいた頃で、その格好良さにノックアウトされてしまった。その後、彼のリーディングを聞く機会を得るのだが、その時は詩の内容はさっぱり分からなかったものの、音楽のような声のトーンに完璧にやられてしまった(作品中にもあるが、彫金をしながら朗読するのだ)。
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(C)テレコムスタッフ
  この作品はそんな世界からも認知されている詩人 吉増剛造の半生を描くドキュメンタリーではない。監督の言葉を借りれば「島国って何なんだろうという疑問を吉増剛造の背中を追いながら考えた」作品ということになる。日本は島国である。そうした環境にいる中で、吉増剛造は沖縄や奄美という島々に関心を持ち続けている。そこの部分を追っていったのがこの作品である。具体的にこうしたいという演出はあったのだろうが、この作品の本当のカメラになるのは吉増剛造であり、実際のカメラはそのカメラたる吉増剛造を撮影しているといってもいいと思う。僕たちも吉増剛造の背中を追い続けていくわけだ。
  監督はTVのドキュメンタリー番組のディレクターとして活躍する伊藤憲。彼はNHKのアナウンサーからディレクター(ちなみに所属はNHKではない)になったというちょっと変わった経歴を持っている。ただ、元からアナウンサー志望であったわけではなく、配属がそうなっただけだという。地方局でのアナウンサー業務の傍ら、自らもカメラを持ち、取材を試み、その結果がディレクターに繋がっていくのだが、大学でアジア系の不法滞在者のフィールドワークを経験したことがそうした部分での大きな糧になっているとも語っている。この作品の主役である吉増剛造との出会いは現代詩人を取り上げるドキュメンタリー番組のシリーズ企画であり、そのときにその存在感に魅了されたという。
  ずっとTVのドキュメンタリー番組をディレクションしてきた伊藤監督は吉増剛造に魅了され、上映されるかどうかも分からないのに映画を作ろうと決意する。そして、数度にわたる沖縄、奄美の島々での撮影で廻したフィルムをセレクトしながら、時間軸を切り落とした1本の作品へとまとめ上げていく。その際に考え、実行したことが、ナレーションや効果としての音楽の排除であった。要するに観る側の思考をある方向、気分へと捻じ曲げるものを排除し、観る側の感性に返したのだ(必要最低限のテロップはある)。それは吉増剛造をカメラとした監督と同じ地点に立つということでもある。作品にはこの効果が十二分に現れている。例えば、映画の冒頭の草中を掻き分け、昔、女性たちが水を汲んだ洞窟の中にと降りていくシーンでの草、水の音、虫の声、吉増剛造の独特の喋り(江戸言葉)の重なりにはその音以上のものを感じ取れるはずだ。ここだけではなく、この作品では島の音や声などが音楽のように立ち上がってくる。ここで読まれる吉増剛造の詩も正直、よく分からないのだが、語感だけは心地よく、まとわりつくように残っていく。そんな吉増剛造は地名や性などの言葉にこだわっていく。そこには言葉の持つ意味もあるが、それと同等の音感、リズムがあるのだ。
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(C)テレコムスタッフ
  冒頭のシーンはもちろん、作品にはいくつもの印象的なシーンがあるが、個人的にハッとしたシーンは吉増剛造が浜辺でアジアの地図を広げ、奄美、沖縄の位置関係を美しく、あっさりと説明するところだ。これは島尾敏雄の「ヤポネシア論」をさりげなく、端的に言葉にしたものである。作品には、その島尾敏雄の妻である島尾ミホも登場し、吉増剛造と語り合っている。
  「島国って何だろうという疑問」から導き出されたひとつの考えとして、伊藤監督は、何度も侵略、支配されたことから生まれた“交わる”“引く”という部分を語っている。今の時代は突出することが善のように語られ、そういう流れにと向かっているが、実は島国で生きるというのは突出しないでやっていくということではないのではないか、子供の頃に親たちからはでしゃばることは良くないと教えられてきたではないか、ということだ。沖縄や奄美はその“交わる”“引く”文化の先端にあるのだ。
  伊藤監督はこの作品を「映像から自分なりの作品を作り上げて欲しい」と語っている。そんな作品の最後は吉増剛造の皮が何回もむけ、固くなった足の裏のアップで終わる。作品は終わるが、吉増剛造の旅はこの後も続いていく。その旅を受け取るのも僕たちなのだ。ぜひ、劇場でその感覚を感じ、味わってください。

ストーリー
「吉増剛造の視線を追っていく沖縄や奄美の島々の旅」
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(C)テレコムスタッフ
  日本を代表する詩人である吉増剛造。長い間、沖縄や奄美の島々に関心を持っている吉増は何度となくそこを訪れ、自らの作品にも反映させている。島国って何だろうと思っていた監督は吉増剛造の目線からその疑問を考えていこうと、沖永良部島、加計呂麻島、沖縄本島、奄美大島を一緒に旅していく。
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