「舞台は第2次世界大戦末期のラップランド。言葉も民族も違う敵対する国の男性ふたりと現地に暮らす女性ひとりの出会いがきっかけとなって始まるユーモラスでファンタジックで現実感にも満ちた物語」
日本という国の外へ旅に出る時、大きな問題となるのが言葉と風習だろう。日本語という言葉はその需要はあれども決してメジャーな言葉ではないし、まだ何とかなる(かもしれない)英語圏以外の国では些細なことが伝えられないという部分に悩まされた方も多いはずだ(逆にそこから新たな発展も生まれるのだが)。風習に関しては事前にガイドブックなどでチェックをしていても、現地に入って改めて気付かされることも多い。今回紹介する作品『ククーシュカ
ラップランドの妖精』は言葉も民族も違う男性ふたりと女性ひとりの出会いがきっかけとなって始まる物語である。
物語の舞台となるのはタイトルにもあるように北欧フィンランドの最北の地ラップランドである。ラップランドといえば、オーロラが見られる地、サンタクロースの村がある地、冬はスキー、夏はハイキングなど様々なスポーツが楽しめる地としても知られているのだが、このラップランドにはサーミ人と呼ばれるヨーロッパ最古の民族が暮らしていることをご存知の方は多くないだろう(フィンランドのHPによると現在6500人)。スウェーデン、ノルウェイ、ロシアに隣接するフィンランドはスウェーデン、ロシアという大国に支配されてきた歴史も持っている。この作品『ククーシュカ
ラップランドの妖精』の舞台となるのはフィンランドがドイツと手を組み、ロシアと戦っていた第二次世界大戦の末期、その主たる戦場となったラップランドである。ここに暮らすサーミ人の未亡人女性のもとにひとりの傷ついたロシア人兵士ともうひとりの傷ついたフィンランド人兵士が立て続けに現れることから物語はスタートする。サーミ人の未亡人、ロシア人兵士、フィンランド人兵士、彼らの間に共通している言葉はない。ジェスチャーや発せられる言葉の仕草などから彼らはコミュニケーションを図らざる得ない、ゆえに些細なことが伝えられず傍から見ればおかしな状況(当人からすればたまらぬ状況)がこの作品では起こっていくのだ。しかも、フィンランドとロシアは戦争中である。物語の設定がさらにおかしくなっているのはフィンランド人は平和主義者ゆえに自軍から「ロシア人の標的にでもなれ」とドイツ軍の軍服を着せられ、岩場に鎖で足首を固定されて脱出してきた身、一方のロシア人は自分が自軍に捨てられたことを気付いていないのだ。「このナチ野郎」というロシア人の挑発に対しても「俺は平和主義者だ」と言うのだが、お互いに通じていないし、名前すらもまともに伝えることが出来ない。しかも未亡人は男日照りだったのにこんな幸運が一気にやってきてとホクホクしているのだが、そこもうまく伝わるはずがない。そんなこんなで行き場のない3人の生活は始まっていく。
監督はロシア人のアレクサンドル・ロゴシュキン。この作品が日本では劇場初公開となる監督だが80年代から多くの作品を発表し、1990年に発表した『護送兵』はベルリン国際映画祭批評家連盟賞を受賞、1995年発表の『国民的狩猟の特色』とその続編になる1998年発表の『国民的漁労の特色』はロシア国内で大ヒットを記録し、ロシアを代表する映画監督となった(なお、これらの作品は劇場公開はなかったものの日本でも映画祭などで上映されている)。この『ククーシュカ
ラップランドの妖精』はそんな監督にとって、モスクワ国際映画祭の最優秀監督賞をはじめ5部門の受賞、サンフランシスコ国際映画祭での観客賞の受賞などロシア国内だけでなく、世界的な評価も確実にすることとなった作品でもある。
ロゴシュキン監督はこの作品について「私にとって面白いのは3人がお互いを理解しないためにあたり前の生活レベルではお互いを理解できない、それなのに深いレベルでは理解し合う、というところです。それに、こういうかたちで人間がぶつかり合うというのがまた好きですね。」と語っている。あたり前の生活レベルで理解しないという例には様々なものがあるが、例えば、国民的サウナ好きのフィンランド人の兵士はサーミ人の女性の大切なドラム缶をぶち壊し、簡易サウナを作り上げてしまったり、せっかく移動した木を「そうか」と別の場所に持っていくなど、言葉が通じれば「早合点」で済むものも、それがないために素通りしてしまうのだ。その極端な例が名前である。言葉が変われば、名前の意味合いも変わるし、大体「名前は何だ」という質問すら通じないのだ。でも、表層に過ぎない言葉を超えて、愛情や感情はリアルに伝わり、そこが新たな感情や相互理解をも生み出していくという部分もこの作品は描いている。その先にはお互いの言葉を理解するという作業が待っているのだ。
監督自身は「この作品を設定を変えればリメイクできる」と語っているが、例えば、主人公のひとりが日本人でその他のふたりの言葉は全く理解できないという下で、この作品を観れば相当に想像力が刺激されると思う(残念ながら、今回の劇場公開では3人の言葉に字幕スーパーが入れられている)。監督は「この作品で最もやり遂げたかったのは、登場人物の話す言葉が理解できなくても、彼らのことが理解できるようにすることでした」と語っているが、そういった部分では1ヶ国語しか字幕が入らない、全く字幕がないという試みがあってもいい作品なのかもしれない(実際、その方が映像の持つ美しさ、言葉の耳ざわりなども楽しめるはずだ)。
感情や愛情から相互理解が生まれるが、その感情と愛情ゆえに相互理解が壊れてしまう様もこの作品は描いている。その背景に横たわるのは国家間の戦争という影である。その戦争とは全く関係なく自給自足の生活を送るサーミ人の女性を真ん中に置くことによって、この作品はそのどうしようもなさを訴えるものにもなっている。フィンランド兵がいくら兵隊をやめ、戦争を捨てたんだと語ったところで、それはロシア兵には伝わることがない。そこに感情的なゆがみも生じていく。ここは作品の大きなキーでもある。
サーミ人の風習(呪術的な部分もだが、潮の満ち干きを利用した漁などは興味深い)、美しく、幻想的な風景なども閉じ込められたこの作品『ククーシュカ
ラップランドの妖精』は現実感、オフビート感覚に満ちながらも、北欧らしい(実際はロシア映画)心を暖めてくれるファンタジックな作品に仕上がっている。様々な捉え方も出来るな作品でもあるので、ぜひ、劇場に脚を運び、その面白さを味わってください。 |