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『キングス&クイーン』

配給:boid
オフィシャルサイト:
http://www.kingsqueen.com/
この映画の予告編はこちらから


キャスト スタッフ データ
エマニュエル・ドゥヴォス
マチュー・アマルリック
カトリーヌ・ドヌーヴ
モーリス・ガレル
ナタリー・ブトゥフ
ジャン=ポール・ルシヨン
カトリーヌ・ルーヴェル
マガリ・ヴォック
イポリット・ジラルド
ノエミ・ルボフスキー
ヴァランタン・ルロン=ダルモン
ジョアサン・サランジェ
ジル・コーエン
オリヴィエ・ラブルダン
監督、脚本:アルノー・デプレシャン
脚本:ロジェ・ボーボ
撮影:エリック・ゴーティエ
編集:ローランス・ブリオー
美術:ダン・ベヴァン
衣装:ナタリ−・ラウール
音楽:グレゴワール・エッツェル

*2004年
  ルイ・デユリック賞 受賞
*2005年セザール賞
  主演男優賞 受賞
*2005年フランス批評家協会賞
  作品賞 受賞

2004/フランス/カラー/
シネマ・スコープ/2時間30分


イントロダクション
「“トリュフォーの再来”と賞賛された現在のフランス映画界を代表する監督アルノー・デプレシャンが男たちと女の恋と人生の遍歴と成長を描いた、深い後味を残す素晴らしすぎるドラマ」
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 アルノー・デプレシャン監督の『そして僕は恋をする』が公開された時は“フランソワ・トリュフォーの再来”という言葉と共に雑誌でも大きく取り上げられていたのを記憶している。これは少なくとも今以上にフランス映画への欲求があった、それを支える層がいたということであり、こういう言い方をするのは極端かもしれないが、トリュフォーという名前に希求力があったということかもしれない。古典やマスターピースと呼ばれる作品が顧みられることが少なくなっているという話を聞くとそれも仕方ないのだろう。今回紹介するのは“トリュフォーの再来”と騒がれたアルノー・デプレシャン監督の最新作『キングス&クイーン』である。
  フランソワ・トリュフォーについては説明しない(近所のレンタル・ビデオ屋のフランス映画のコーナーに行けば必ずあるはずだし、今でもオールナイトなどで回顧的な上映が行われているのだから)。ただ、デプレシャンがなぜ“フランソワ・トリュフォーの再来”と呼ばれたのかは僕なりに思うところがある。恋に人生に悩み続ける主人公の右往左往する様子、その過程を丹念に描くことから生まれてくる共感、そして圧倒的な映画への知識と愛情である。デプレシャン監督の映画はどれもこれも長い(2時間半から3時間だ)のだが、こういった葛藤を丹念に情熱的に、深刻さだけではなく、ユーモアを交えながら描くことで共感を呼び、映像の力で見せきってしまう。そういう部分では本当に類稀な監督なんだと思う。そう思えたのも『キングス&クイーン』という素晴らしい作品に出会えたからだ。
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  この作品はタイトル通り、キングス&クイーン -王様たちと王女様- の物語である。主人公である王女様はひとり、彼女にとっての王様たちは父親、息子、前の彼氏、今の彼氏、息子の父親になるはずだった彼氏、その他の付き合ってきたであろう彼氏たちである。その中で物語の主役となるのは前の彼氏(実際は前の前の彼氏だったはず)である。ちなみに王様たちと王女様といってもそのタイトル通りのコスチュームものではなく、あくまで比喩の現代の普通の男女の物語だ。
  作品は新しい彼氏との関係もうまくいき、半年前に始めた画廊も順調な女性の物語として始まっていく。彼女は大切な息子を実家の父に預けている。父の誕生日にあわせ、彼女は実家へと戻るがそこで彼女の父は下血をしたと告白する。医師の診断の結果は思わしくなく、彼女は徐々に衰えていく、父を見守り、励ますしかなかった。一方、彼女の前の恋人は突然、誰かの報告により精神病院へと放り込まれてしまう。彼は自分が正常であることを訴えるが、それが聞き入れられることはない。しかし、あることを契機に彼への待遇が変わり、精神病院にいる状況を楽しみ始める。このふたりの関係はある1点で再び交わる。それは彼女の息子だった。彼女は息子が唯一なついていた彼にその世話を頼もうと思っているのだ。
  デプレシャン監督はこの作品について「相対する2つの映画という構成自体が、狙いそのものだった。」とした上で「思い出に埋もれた女性のパートでは、ファンタスティック映画を想像した。前の恋人はその人物そのものがバーレスク映画だ。」と語っている。このように書いてしまうとちょっと難しく感じるかもしれないが、女性のパートは死が迫っている父を前に父と自分、息子の父親と自分、自分と前の彼など自分を取り巻いてきた様々な関係がよみがえり、そうした部分を感じ、乗り越えていく成長の物語がファンタスティックかつシリアスに描かれ、前の恋人のパートは理由も何もかも分からない中で精神病院へ放り込まれながらもそうした状況を楽しみ、成長する物語がコミカルかつエネルギッシュに描かれている。そしてふたりは息子という部分をキーに出会うのだ。
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  先ほどデプレシャン監督の映画について、“恋に人生に悩み続ける主人公の右往左往する様子、その過程を丹念に描くことから生まれてくる共感”と書いたが、この作品でもそうした部分は貫かれている。そのああでもないこうでもないという部分や深刻さ、いい加減さを自分の身の上のように感じながら、最後にはなんともいえない共感や後味が生まれていくのだ。僕はこの映画のラストに近い重要なシーンで涙してしまった。そのシーンは彼女の前の彼が彼女の息子に自分の思い、生きてきたことから導き出された真理を語るというものだ。この会話をしながら明らかにふたりは新たな関係を構築し、成長しているのだ。感動が売りの映画は多いが、そういう薄っぺらさではないものが、それまでの右往左往から生じているのだ。
  デプレシャン監督は「僕が作るような映画は10年前に比べて支持する人が減ってきてているのが現状だ。僕がパリに来た頃は、マルグリット・デュラスの映画を見に行くときに、それが芸術映画なんて考えたりしなかった。今の映画産業のシステムは知的な映画がエンタテインメント映画に向かうことを妨げているし、その逆も真なり。」と語っている。デプレシャン監督のこの作品は掘り下げれば、相当に計算された作品であるのだろうが、深く胸に落ちてくる点でエンタテインメントであることは間違いない。
  オープニング・テーマ、そして作品のテーマ曲である『ティファニーで朝食を』の「ムーン・リヴァー」(ヘンリー・マンシーニ)と共に始まる映像の美しさ、どこか往年のハリウッド映画を感じさせる感覚(特に音楽の使用法)など観れば観るほど、何かを発見できるだろう作品であり、何より、人生の楽しみを感じ取れる作品であると思う。ぜひ、劇場に脚を運んでください。

ストーリー
「父の死に直面した女性精神病院に強制入院させられた男性、かっての恋人は女性の息子の今後のために再び出会う」
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 ノラ・コレトルはパリで画廊を営んでいる35歳の女性。3度目の結婚を控えた彼女には最初の亡き夫と間に息子が一人いる。今は息子は実家で彼女の父親と暮らしている。父親の誕生日に実家へと戻った彼女はそこで父親が体調が芳しくないことを知る。この日も下血をした父親はすでに取り返しの付かない末期癌に侵されていた。彼女は悲しみの中で父との最期の日々を過ごしていくことになる。そこで湧き上がってくるものは多くの思い出だった。
  ヴィオラ奏者のイスマエルはこの日も国税局の人間から逃げ回っていた。そんな彼の家の玄関をノックしたふたりの男は彼を精神病院へと放り込んでしまう。彼は自分が正常であることを訴えるが聞き入れられない。それは彼が「第三者による措置入院」で精神病院に放り込まれたからだった。しかし、そうした環境の中でも彼は自分にとっての楽しみ、居心地のよさを獲得していく。
  父の死の中でノラは婚約者とはうまくいっていない息子の行き場所を心配していた。彼女が思いついたのはイスマエル。息子は彼にだけはなついていたのだった。ノラはイスマエルの居場所を見つけ、事情を話しに行くのだが。
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