「アメリカ郊外の美しい風景、そこで暮らす若者たちの閉塞した日々、そこに現れたカウボーイという自由の象徴。美しくも苦い愛、自由への渇望を描いたメランコリックな青春ドラマ」
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アメリカの風景は魅力的だ、ということを言ったのはヴィム・ヴェンダースだった。彼だけではなく、多くの人がアメリカの風景に大きな魅力を感じている。東京には東京の魅力、パリにはパリの魅力という風に都市には風景としての大きな魅力があるが、国として風景の魅力に溢れている、国として括れてしまうのはアメリカだけかもしれない。そんなアメリカの魅力的な風景とそこにある閉塞感を描いた作品が、今回紹介する『ダウン・イン・ザ・バレー』である。
物語の舞台はロサンゼルスの郊外にある住宅地。ここに強圧的な父親と暮らす姉、弟がいる。17歳の姉は父親に対して反抗的で弟思いであり、13歳の弟は内気で姉に対して強い信頼を寄せている。彼らの町にひとりのカウボーイの格好をした男がたどり着き、ガソリンスタンドで働き始める。友人たちとドライブに出かけようとしていた姉はそのガソリンスタンドで時代遅れも甚だしいカウボーイの男に出会う。友人たちの馬鹿にした声の中、姉はカウボーイに声をかけ、ふたりは離れられない関係になっていく、というものだ。
この作品は端的に語れば、時代遅れの男と女の恋の顛末を描いた物語という風になるかもしれないが、それだけでは納まらない様々なテーマが込められている。その最も大きいものがあり、サバービアと呼ばれる郊外の暮らし、そこで抑圧的な父親に育てられることの閉塞感である。
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この作品が長編映画第2作目となる監督、脚本のデヴィッド・ジェイコブソンにとって、この作品の舞台となるサンフェルナンド・バレーは自らの生まれ育った地でもある。映画の姉弟のポジションと同様に離婚した家庭に育ち、妹と仲が良く、車が通りを行き交うフリーウェイ沿いの家に暮らしていたという監督は「この作品は、僕の体験と大好きな西部劇を結びつけたものなんだ」と語っている。彼が書き上げた脚本を気に入ったのがインパクトの強い役柄で印象的な俳優エドワード・ノートンだった(意外にも初めてのインディーズ映画だという)。ノートンは「そこに漂っているメランコリックな雰囲気や、かっては存在したかもしれず、もしかすると存在しえないかもしれないある種の純粋な精神を探し求めているキャラクター。また、現代にとってウェスタントはなにか、というメインのテーマ。」と脚本に惹かれた理由を語っている。ノートンが明確にひとつの理由を語らないことからもこの作品が様々なテーマを内包しているのが伝わると思う。監督は「どうしたらアメリカ人が理解できるようなものに出来るのか、ということを良く考えるくらいなんだ」と冗談めかしに語っているが、この様々なテーマを感じられるという部分がこの作品の大きな魅力となっている。
もうひとつの魅力は先に書いたアメリカの魅力的な風景、郊外の町並み、夜のフリーウェイなどが捉えられていることだ。ちょっとねむい、カラー・フィルムに映し出されるその風景はメランコリックな雰囲気に満ち、本当に美しい。その風景を彩るカントリー・ミュージックも印象的だ。
出演はエドワード・ノートンのほかに、『サーティーン あの頃欲しかった愛のこと』が印象的だった期待の若手女優エヴァン・レイチェル・ウッド、マコーレー、キーラン・カルキンの弟であるローリー・カルキン、『クロッシング・ガード』のデヴィッド・モースなど。
強圧的な父親の下で暮らす姉弟。オープニングのシーンでフリーウェイに架かった横断橋の上から唾を吐き出す、その上を旅客機が飛んでいく。空港が近くにあり、フリーウェイが真横を走る環境に暮らしながらも彼らはそこを出て行くことが出来ないという気持ちを表す象徴的なシーンだ。そんな気持ちを抱えた中、姉が出会ったのがサウスダコタからやって来たというカウボーイだった。自分の力のみで町から町を渡り歩いていくカウボーイに彼女は魅力を感じ、自然と恋に落ちる。強圧的な父親が決めた門限も破るし、朝帰りもするようになる。自由なカウボーイという存在が彼女にとって大きな力と希望となっていくのだ。そんなカウボーイに弟も自然と憧れを抱いていく。でも、そのカウボーイ自身のメッキは徐々に剥がれていく。
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そのメッキが剥がれ落ちていく後半の展開には相当に重いものがあるが、この作品はずっと晴天なのに低い雲に覆われたような重さが漂っている。だからこそ、彼らは自分を救ってくれるヒーローを待ち構えていたのだった。こうした閉塞感、孤独を抱える人々とヒーローというものの組み合わせ、その行く末。そしてノートンが語る「現代にとってウェスタントはなにか」という部分は様々な示唆を与えてくれるのではないだろうか。
ラスト・シーンをどう受け取るかにも色々な見解があるだろうが、僕には希望的なラストに感じられた。70年代のアメリカン・ニューシネマ的な色合いもある作品なので、その辺りが好きな方はぜひ、劇場に脚を運んでください。 |