「アメリカ国内で圧倒的な支持と絶賛を受けたティーン・ムービーが遂に公開」
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内容は良くてもキャストなどの引きや売りがないためにDVD(ビデオ)のみの発売になったり、日本では観公開となってしまう映画は数多い。そういったタイプの作品のひとつとして、俗にティーン・ムービーと呼ばれるものがあると思う。これはアメリカではティーンに人気の俳優でも日本では人気がなかったり、背景などが理解できないことが一因になっているのだろう。今回紹介する作品『サーティーン/あの頃欲しかった愛のこと』はもしかしたらそういった作品になってしまったかもしれないティーン・ムービーの秀作である。
この作品『サーティーン/あの頃欲しかった愛のこと』はタイトルからも分かるように13歳のティーンたちを主役に描いた物語である。13歳といえば、身体面での変化はもちろん、日本では小学校から中学校への変わり目であり、教育制度の違うアメリカでは一概に小学校から中学校への変わり目とは言えないが、それよりも大きいのは親の保護観察期間が終わる、要するに13歳を境に自己責任の義務が生じるということがある。それまでは街を歩くときも親の同伴が必要であるなどという束縛から解放され、自由を手に入れられる年齢が13歳なのだ。だから、アメリカにおいてはこの13歳というのはとてつもなく大きな意味を持っているわけだ。
親の保護下で可愛い、子供っぽいものに囲まれて暮らしていた13歳の少女は、学校の人気者である大人っぽい少女に憧れ、彼女に近づきたいという気持ちから、少しずつ道を踏み外し始める。甘い誘惑ではなく、自分にとっての憧れとそれがかっこいいと思える気持ちから道を踏み外し、落ちていくという誰にでも思い当たる感覚を描いている点でこの作品は多くの共感を獲得してきた。
そういった共感を獲得できた最大の理由はこの作品が実在のティーンの女の子 ニッキー・リードの体験に裏打ちされているからである。しかもこれはよくあるような回顧的な視点ではなく(それはそれでいいのだが)、現実に13歳である彼女の視点から描かれている物語なのだ。
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ニッキー・リードは、この作品がデビュー作となる監督キャサリン・ハードウィックのかってのボーイフレンドの娘であった。ボーイフレンドと別れた後もリードとの付き合いを続けていたハードウィックは彼女が13歳になった時に見せ始めた外見と心の変化、不安定さに興味と不安を覚え、彼女と過ごす時間を増やし、様々なものに関心を向ける試みを開始した。そういった中でリードが関心を示したのが演技と映画だった。その関心は長年、往路抱くション・デザイナーとして映画業界で働くハードウィックとも共鳴し、ハードウィックは自らの大きな夢であった映画監督の最初の作品となる脚本をリードと書き進めることを決意する。最初はティーン・コメディーの脚本を考えていたが、リードの話す10代の生活と実体験に圧倒されたハードウィックは方向を修正し、このリアルな10代の物語を二人で完成させた。書き上げられた脚本は『ブリジット・ジョーンズの日記』、『ラブ・アクチュアリー』などのヒット作を生み出しているプロデューサーの心を揺さぶり、映画化はすぐに決定。監督のハードウィックをはじめ、多くの主要スタッフを女性で固めるなど、女性だから理解でき、生み出せる嘘のない作品という下地を整え、撮影は開始された。
出演は『ミッシング』、『シモーヌ』のエヴァン・レイチェルウッド、『ピアノ・レッスン』のホリー・ハンター、この作品の脚本にも係わったニッキー・リードなど。この作品は監督のキャサリン・ハードウィックのサンダンス映画祭の監督賞受賞、ニッキー・リードのインディペンデント・スピリット・アワード最優秀新人賞受をはじめ、ホリー・ハンターのアカデミー賞助演女優賞ノミネート、エヴァン・レイチェルウッドのゴールデングローブ賞主演女優賞ノミネートなど主演女優、監督がアメリカ国内の各種映画祭で受賞、ノミネートされるなど内容、俳優陣共に非常に高い評価を持って迎え入れられている。
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主人公は母子家庭であること、母親の恋人に反発があることなど家庭の大きな問題も抱えているが、作品はそういった部分に比重を置くのではなく、ティーンゆえの憧れと自意識過剰さが生み出してしまうこの単純な落ち方(堕落といっていいのかな)とそこから生まれる彼女たちの安直な行動を描いている。多くの観客はそこにリアリティーと共感を感じたのだろうし、逆にこの安直さに反発や馬鹿らしさを感じる向きも多かったはずだ。そういったリアリティーにより生々しさを与えているのが、手持ち、長回しを多用したドキュメンタリーと感じてしまうようなカメラワーク、バックに流れるヒップホップやパンクなどの音楽(例えば、対比的に母親の部屋ではソウル・ジャズっぽい音楽が流れる)である。この作品に出てくる大人たちも完璧に近いのではなく、その逆だ。親は子供に尽くそうとしているし、子供も親の期待にこたえようとポーズをとる。それできちんとうまく回る家庭もあるわけだ。ただ、ここに出てくる家庭はうまく回らなかった。それは少女の自意識の問題や家庭の問題が重なってしまったというだけのことだ。だから、単に安易なドラッグや軽々しいセックスを批判するだけではなく、そこからの1歩を描き出そうとしている。そこに繋がるラストのシーンの母親と娘のシーンはだからこそ美しい。そこには別の理解をし、変わり始める何かが存在している気がする。事実、この作品のニッキー・リードは俳優として、脚本家として高い評価を獲得した。そこにいたのは監督のキャサリン・ハードウィックだった。隙間を何で埋めるのかは、世間的にいい子であろうが、はみ出した子であろうが変わらない命題である。女性と男性、世代で受け止め方も全く違うであろう作品だろう。ぜひ、劇場に足を運んでください。
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