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『少女ヘジャル』
Hejar
配給:アニープラネット
オフィシャルサイト:


キャスト スタッフ データ
ディラン・エルチェティン
シュクラン・ギュンギョル
フュスン・デミレル
I・ハック・シェン
ユルデゥス・ケンテル
監督、プロデューサー、脚本:ハンダン・イペクチ
撮影:エルダル・カラーマン
編集:ニコス・カナキス
美術:M・ジャ・ウルケンジル
   ナタリー・イェセル
プロダクションデザイン:シャーヒン・アルパスラン
音楽:セルダル・ヤルチン
   マズルム・チメン
※カイロ国際映画祭 最優秀脚本賞、銀賞 受賞
※ケルン国際映画祭 最優秀脚本賞 受賞
※エルサレム映画祭 名誉賞 受賞
ほか各種映画祭にて受賞

2001年/トルコ/カラー/ビスタサイズ/ドルビーSR/2時間

イントロダクション
「トルコという国のクルド人問題という政治的なテーマを背景に、トルコ人の老人とクルド人の少女の心温まる交流を描いた感動作」 
 国家を持たない世界最大の少数民族クルドを描いた作品といえば、現在公開中(2004.4月現在)の『我が故郷の歌』や『酔っ払った馬の時間』でイランとイラクのクルド人の生活の過酷さを描いたバフマン・ゴバディ監督の作品が思い浮かぶ。それからトルコのクルド人問題を描いていた『遥かなるクルディスタン』という作品もあった。今回紹介する作品『少女ヘジャル』もトルコという国に暮らすクルド人を捉えた作品である。
 クルド人はトルコ・イラン・イラクにまたがる地域に暮らすインド・ヨーロッパ系の民族である。先にも書いたように国家を持たない世界最大の少数民族である彼らは、これら3カ国で大きな弾圧を受けてきた。その中で最も多くのクルド人が暮らすトルコのクルド人は、クルド人としての存在を否定されている。彼らは「山岳トルコ人」という名称で位置づけられているのだ。『少女ヘルジャ』を観るにあたって、このトルコ国内でクルド人としての存在を否定されているという部分を頭の片隅にでも入れておくとこの作品の印象に大きな違いが出てくるはずである。
 元判事のルファトが暮らすアパートの向かいの部屋が武装した警察官に襲撃され、一家は皆殺しにされる。しかし、その中をたった一人生き残った少女ヘジャルがいた。ヘジャルは部屋を抜け出しルファトの部屋の前にやって来る。クルド語しか話せないヘジャルとクルド語は分からないルファト。ルファトはヘジャルを警察なり、施設なりに引き渡すつもりだったが、クルド人の現実を理解し始めたルファトとヘジャルの間にはおじいちゃんと孫のような温かい交流が生まれ始めるというのがこの作品の物語である。正直、政治的な問題を扱っているがそれを前面に声高に訴えているわけではないこの作品は、老人と少女の温かみ溢れる交流の感動的な物語としても通用してしまう。例えば、それはブラジル映画『セントラル・ステーション』のように寂しさを抱えた老人が心を開き、変化していく物語でもある(『セントラル・ステーション』がブラジルという国の現状も描いているように『少女ヘジャル』はトルコのクルド人問題を描いている)。
 監督はトルコ人女性監督ハンダン・イペクチ。脚本、プロデュースも彼女自身が行っている。この作品『少女ヘジャル』が劇場長編2作目となるイペクチ監督がこの作品の脚本を書くきっかけとなったのは1998年のトルコ共和国成立75周年という祝賀ムードに満たされていた時期だという。「祝賀ムードとは裏腹に、クルド人居住地区で反政府ゲリラが支持されているトルコ東部および南東部では殺戮が繰り返されていました。テロを恐れて多くの人が都市部に流入していた時期でもあり、そういしたことからトルコという国の持つ矛盾を目のあたりにして脚本を書こうと思いました。」と語っている。この作品は文化省の許可を受け撮影されたが、公開から5ヵ月後に当の文化省の命令で公開を禁止されるという措置を受けている。その理由は警察からクルド人弾圧の描写が過激すぎるとクレームが入ったこと、作品内でクルド語が使われていることだという(これはセンセーショナルなことだという)。先に書いたことに戻るが、クルド人という存在を認めないトルコ政府という問題がここでもあらわれてくるわけだ(その後、裁判で勝訴し、再上映が認められた。この辺りにはやはりEU加盟問題が絡んでいるのだろう)。作品の中でも元判事のルファトはヘジャルや彼の家政婦にクルド語の使用を禁じる。しかし、そこにはクルド語を声高に話すヘジャルがいる。それは判事という職業をやってきた彼にとっては信じられない現実でもあるわけだ(これは観客にとってもね)。そんなヘジャルを厄介払いしようとするルファトだが、そこで彼は初めてクルド人の現実に、世界を覆う現実に出会っていくわけである。
 この映画はトルコ国内のクルド人という問題を扱っているが、そういった部分を抜きにしても老人と少女の心のつながりを描いた心温まる(先にも書いたが『セントラル・ステーション』がお気に入りだったら、ぜひ、観てください)エンタティンメント作品であるということを頭に置いて欲しい。トルコ国内で数多くの映画賞を受賞し、大ヒットしたのはまず、そういった部分が大きかったのだから。もちろん、政治的な意味合いの深い映画でもあるので、クルド人問題などに興味のある方は物語とともにその深みを味わってもらえればと思う。本当に素晴らしい作品ですので、ぜひ、劇場に足を運んでください。

ストーリー
「警察による惨殺の中を生き残ったクルド人の少女ヘジャルと元判事のトルコ人の老人ルファト」
 ヘジャルは5歳のクルド人の少女。この日、ヘジャルは大好きなエブドゥおじさんに連れられ、イスタンブールの親戚が住むアパートへとやってきた。ヘジャルはこの親戚に預けられることになったのだった。エブドゥは「私のいるところにはこの子がいる余裕がない」と嫌がるヘジャルを置いてくる。その夜、親戚の部屋は警察による襲撃を受ける。親戚の部屋はクルド人分離独立派の活動拠点だったのだ。一家は警察の手により皆殺しにされるが、ヘジャルだけは無事だった。ヘジャルは警察官の目を盗み、向かいの元判事ルファトの部屋にやって来る。
 元判事のルファトは妻に先立たれひとり暮らしの身だった。彼の身の回りの世話をしているのは通いでやって来る家政婦のサキネだった。老い先の短いルファトは老人ホームに入ろうかとも考えていた。同じアパートに住む未亡人のミュゼェイェンはそんなルファトに思いを寄せていた。
 ヘジャルを一時的に保護したルファトだが、クルド語しか話さないヘジャルとクルド語を分からないルファトの間には意思の疎通すら出来ない。家政婦のミュゼェイェンはクルド語を話すのだが、ルファトにとってクルド語を話されることは許しがたい行為である。ルファトとヘジャルは意思の疎通も出来ず、反目をし続ける。ヘジャルはエブドゥおじさんが迎えに来て、お母さんのところに連れて行ってくれると信じているのだ。ルファトはヘジャルをどこかに預けようと考えるが、そんな時にヘジャルの衣服からエブドゥへの連絡先を書いたメモが出てくる。何度も電話をしても連絡が取れないため、ルファトはヘジャルを連れ、エブドゥの住む場所へと向かうが。
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