「日活から製作中止命令が出た時、プロデューサーの大塚和さんから電話で“中止って言ってるけど、まあいいやないか、やりなさい”って言うんだよね。本当にいいのかなって思ったよ。“金はあとどのくらい要るんや”とかあってね。で結局、日活には中止したことになってるのに、河辺と2人でゼロ号試写までやったんだから」藤田敏八監督の証言である。1995年の山形国際ドキュメンタリー映画祭に、何の前触れもなく突如現れたのがこの映画だった。'70年安保闘争を中心に揺れ動いていた1968年の日本の若者たちを追いかけたドキュメンタリー。街を彷徨する新宿のフーテンたち、世間の騒ぎをよそに訓練に没頭する自衛隊員、東大闘争真っ只中の活動家、そして内乱寸前の日本の姿を映し出したこのフィルムは、平穏無事に過ごしている我々の心に突き刺さらずに入られない。上映されたこと自体が奇跡のようなこのフィルムは、波乱の歴史を持っている。撮影が進むにつれて、次第に藤田・河辺と浦山・斉藤が対立するようになり、完成予定の時期を大幅に越えていった。そして公開中止に至る。1968年11月公開が中止になったことについては諸説あるが、一番信憑性が高いのは、内乱寸前の様相を呈した社会を刺激することを恐れて公開中止に至った、という説明ではないだろうか。
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