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殺人事件が浮き彫りにするのは壮絶な愛と哀しみ。サスペンスとしてもドラマとしても一級の傑作。(95点)
刑事裁判所を退職したベンハミンは、25年前の未解決事件を題材に小説を書き始める。1974年に起こった残忍な殺人事件は、政治の力でもみ消され、ベンハミンを苦しめたが、事件を思い出すことで封印された愛が蘇ってくる…。
時はすべてを解決する。はたして本当だろうか。この物語は、幸せな新婚生活を満喫していた美しい女性が暴行された末に惨殺されるという痛ましい事件が発端だ。誤認逮捕などの経緯を経て真犯人を捕らえるまでは、緊張感溢れるサスペンスとして進んでいく。だが主人公ベンハミンの懸命な捜査の果てに待つものは、軍事政権への協力を条件に犯人が自由の身になるという、あまりに不条理な現実だった。密告や拷問により、正義が歪められた負の時代は、どれほどの数の人間を不幸にしたことか。ベンハミンは、殺された女性の夫リカルドの深い愛情と悲嘆、何より想像して余りある無念を思いながら、ブエノスアイレスを離れる。そこには、身分や学歴など、とうてい自分とは釣りあわない美しい上司イレーネへの恋を封印するという悲しみもあった。
ベンハミンは小説を書くことによって過去をリロードしていくが、Aの文字が上手く打てない古いタイプライターに向き合ううちに、彼の心にかつて携わった事件を解決したいとの強い思いが湧き起こる。ベンハミンにとって、この過去に向き合わない限り、人生はないも同然なのだ。次第に明かされる真相は、友人パブロの捨て身の友情と共に、リカルドの執念に辿り着く。「死刑など望まない。犯人には長生きして罪を償ってほしい」とつぶやいたリカルドの瞳には、時を凍りつかせるほどの絶望が見てとれる。ついに突き止めた事件の真実は、ありきたりな謎解きではなく、言葉を失うほど衝撃的なものだ。
ファン・ホセ・カンパネラは、アルゼンチン屈指の実力派監督で、米国でも活躍している。本作では、愛するものの不在に耐える男を軸に、深みのある物語を生みだした。ラテン系特有の情熱と悲哀のミキシングは見事というほかない。演じるのは、日本ではあまりなじみがない俳優たちだが、ルックスといい演技といい、非常に味わい深い。25年前と現在を同じキャストがメイクアップに工夫を凝らして演じるが、まったく違和感がないのがさすがだ。とりわけ、強さと脆さを併せ持つ主人公を演じたリカルド・ダリンの感情描写が心に残る。ベンハミンの記憶をたどる旅は、やがて失われた歳月を取り戻すという、人生最大の決意へ。胸をえぐられる愛の凄味を知った後に、自分を解放する主人公に、国家権力の暴力にもくじけない人間の生命力を見て感動が押し寄せる。
この映画の素晴らしい点は、あくまでも個人の視点で事件を語り、結果としてその視座が歴史を照射したことにある。サスペンスと人間ドラマと愛の物語が交錯する構成は、まるで、クラシックやジャズ、ミロンガのような民俗音楽を柔軟に取り入れて熟成したタンゴの調べのようだ。本作は第82回アカデミー賞で外国語映画賞に輝いた。かつて同じ賞を受賞し、やはり軍事政権を背景とした秀作「オフィシャル・ストーリー」では、ヒロインは現実を直視し「人形の家」のノラのように精神的に自立する。一方、「瞳の奥の秘密」の主人公は、政治によって辛酸をなめるが、それでも未来へ向かう勇気を得る。時を経た愛の形が、深い余韻を残し、忘れえぬ作品になった。