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■インタビュー会場にて

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■インタビュー会場にて

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■インタビュー会場にて

-ふたりがなんとか大切な一言を言うようにしてあげたいなという想いがあった-

 2月20日、都内某所にて、この1月25日から公開になる宮崎あおい、西島秀俊主演の話題作『好きだ、』の石川寛監督へインタビューすることが出来た。CMディレクターとしても活躍する石川監督の監督第2作目になるこの作品『好きだ、』は2005年ニュー・モントリオール国際映画祭で最優秀監督賞も受賞している。審査委員長であるクロード・ルルーシュ監督から「グランプリと同等に重要な賞。素晴らしい才能を発見した。」と絶賛されたのだが、その時の状況を石川監督は「クロード・ルルーシュさんは全てを言ってくれたようなすごく長い前置きだったんですよ。作品賞すらなく、監督賞だけ凄く長い前置きだったんです。」と嬉しそうに語ってくれた。また、映画祭での観客の反応も非常によく、作品上映後の新聞も高評価を与えていたという。
  インタビューはこの作品の制作のきっかけや構造的な部分などに焦点を絞ったものになっている(キャストのセレクションなどまだまだ聞きたいこともあったのだが、これは監督の話に魅了され、東京ににこだわったインタビュアーの不手際でもある)。また、作品の物語へと踏み込んでいる部分もあるので、気になる方は作品を観てから、読んでいただければと思う。
  石川監督はこちらの曖昧な質問にも真摯な態度で、言葉を選び考えながら対応してくれた。そこからは映画作りに対する大きな愛情、こだわりが伝わってくるだろう。
  当日のインタビューの内容は以下の通り(質問内容、回答などは読みやすくなるように手を加えています)。

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Q:プレス資料によりますと、10代と30代のときの自分の姿の差異がこの作品の制作のきっかけになったとありますが、具体的にそのことをお聞かせいただけますか。

A:30代の中頃くらいに会社の先輩と飲みに行き、どうでもいい話を楽しくしていたのですが、トイレに立って、洗面所で手を洗っていたときに鏡に映った自分の姿が本当の自分に見えなかったんです。そんなことは考えたこともなかったのですが、その時は凄く不思議に思い、なぜか20代ではなく、10代の頃の自分と重なっていないように感じたんです。その気持ちが強く印象に残り、2本目の映画を作るときに、その時の変わってしまった自分という感覚、男ってそういう風に思うかもな、東京みたいな街でひとりで生活のために働いているとそういう風に感じてしまうのかなと思い、そこがこの作品の取っ掛かりとなりました。
  映画を作るときにはいつも、こういう映画が撮りたい、観てみたいということを記載するノートを作るのですが、幾つか書いているうちに、自分にとってはその部分が強く重なっていたこと、1作目(『tokyo.sora』)で描けなかったことをやりたい、感情として一歩先に踏み込みたかったことから、ふたりの話、ふたりの間で起きる変化がいいなと思ったのです。
  僕は別に恋愛関係が描きたいのではなく、僕自身も多くの経験がある恋愛の手前にいる人を描きたかったのです。不思議なんですけど、10代の自分に姿が重ならなかった30代のその頃に、なぜか20代にはなかった、その一言を言えずに長い時間が経ってしまったという想いを抱えていたんです。
  作品が前半の10代の部分と後半の30代の部分に分かれたのは、10代の頃の自分と重なっていないという気持ち、そういう部分があるということを描きたかったからです。でも、そのときになぜか、10代の頃は女の子、30代の頃は男の話を撮ろうと思ったのです。ただ、これも17年という空白が間にあるので、前半は彼女はなぜ女の子は苦しんだり、辛い想いをしたのか、それは男の子の本当の気持ちが分からなかったからで、17年後に彼女の気持ちを追うのではなく、観ている人も分からない彼の本当の気持ちを追うという視点、構造を変えるということにしたのです。
  僕は映画は構造、観る人をどこに連れて行けるのかということ、そのためにどういう視点を持ってくれば、それが伝わるかということが大事だと思っています。そして、前半と後半で視点が変わるなどという、はっきりした構造が好きなので、このようになったんですね。

Q:構造の話なのですが、僕自身はこの作品から写真集的な印象を受けました。それは写真集の中で主題と無関係のような1枚が大きな変化や広がり、隙間を与えていくということです。この作品ではその隙間は印象的に挿入される、主人公の心象のような空になっていると思います。前作の『tokyo.sora』でも空は印象的に使われていましたが、その空について、お聞かせいただけますか。

A:2つの物語を同時に考えていく中、場所も含めた撮り方を大きく考えるようになりました。前半の10代の頃はふたりがいて、空が開けているという印象から、ロケ地を大館にしました。撮影も自然に歩いているふたりを下から、ふたりと空だけになるように捉えました。そして町並みを余り撮らないように心がけました。実はあの前半の物語はふたりの記憶なのかもしれないのです。そして記憶には町並みなどは関係なく、自分たちと空くらいしか残らないのではないかと思ったのです。例えば、ユウ(宮崎あおい)と彼女のお姉さんの場合も同じです。お姉さんはいつもぼーっとしているのですが、あれも見ているとしたら空くらいだろうなと考えているのです。そういう映像にしたいなと思ったのです。
  後半の30代の物語は前半とは対照的で夜から始まります。これは閉鎖的な感覚にしたかったんです。例えば、彼が彼女を連れてくる部屋は何もありません。それは彼が今の自分には何もないと思っているからでもあります。そういった状況が彼女と会って光を感じていく、ここは意識的に演出をしていきました。

Q:後半は東京のどん詰まっている感覚がうまく描けているなと感じましたし、彼女と会い、日の出の光を感じるというシーンはファンタジックでもあります。そうした東京への想いと、対照的な前半を撮影した監督自身が思春期を過ごしたという大館への想いをお聞かせいただけますか。

A:大館を選んだのははっきりしていて自分にも同じようなことがあったということです(笑)。凄く好きな女の子がいたのですが、自分ではコントロールできない転校が決まってしまい、別れざる得なかったのです。好きな町で、物語として重なるものがあった、そして東京と対照的な町を考えたときに自分にとっては大館だったのです。色々とあるのですが、山に囲まれていますし、標高が高いためか雲が低いところを流れ、空が凄く近く感じるのです。
  僕にとって、東京は期せずして人生の半分以上を暮らした街になったわけですが、20代、30代くらいのときに仕事をしていて先が見えないということを感じていました。仕事上、夜遅くまで働いたり、気分転換に飲みに行ったりとか、映画の中に描かれているように、あれが僕にとっての東京の印象で、いつまでたっても変わらないですね。
  作品では飲み明かして、朝が来て、ここで光を感じるのですが、ヨースケ(西島秀俊)にとっては光に包まれているんだけど、17年前のふたりとは全く違うものになっている、だからこそ、ここから離れなければいけないのではないか、そうではないんじゃないかという葛藤もあるんです。実はふたりは17年前から心は通じ合っていたのに、大切な一言を言わないから、いつまでたってもお互いの気持ちが分からず離れてしまった。17年ぶりに再会してみたら、その頃の気持ちが甦ってくるのですが、そこからまた1歩も動けなくなっている。このふたりをなんとか大切な一言を言うようにしてあげたいなという想いがありました。

Q:実際にその一言を言い、エンディング・テロップで雪が積もった大館のあの土手を30代の二人が歩いているタイトルバックのシーンは凄く印象的ですよね。

A:あれは脚本には書いていないのです。撮影の途中、後半の撮影が始まる前に34歳のふたりにも大館に行って欲しくなったんですね。1月、2月だったんで雪があるのですが、それはそれでいいなと思ったんです。実はあれはラストシーンというよりも、タイトルバックになるんだろうな、ならなくても行くことに意義はあると感じたんです。永作さんには17歳の映像を観ていただいていたのですが、大館という町は初めてだったのです。だからこそ、行くことに意義があったし、あの一言を言った後はふたりで行くんだろうなとも思いました。
  ただ、僕自身はあまりにもハッピーエンドすぎる、少し気恥ずかしい気持ちもありましたし、作品としてはあの一言を言ったことで完結しているのです。ただ、エピローグとしてなら、あの光に包まれているふたりもいいかなと思ったのです。逆にスタッフや出演者にとって、この作品にけりをつけるとしたら、あの一言を言った病室のシーンで終わるのではなく、これしかなかったと思います。

Q:彼女に再会し、もう一度会いたいと電話をして、待ち合わせ場所に向かう途中で、びっくりするような展開になりますが。どうしてスムーズな形ではなく、ああいった波乱を持ち込んだのでしょうか。

A:最後にふたりの大きな障害を設けたかったんです。彼は完成しているあの思い出の曲を彼女に聞かせようとしています。それが彼女への自分の気持ちをはっきり伝えることにもなるわけです。でも、その前に大きな障害がある、それがあるから、あの一言を言うと思ったんです。その時にそれはなんだろうと考えたときに、今は当然のようにあって、17年前はなかったことを考えたのです。それが理由がないのに人を殺してしまう人、刺してしまう人だったんです。僕は彼らがなぜ、そういう行動に出るのかは理解できません。でも、そういう人たちは明らかに存在し、そういう人たちと会ってしまう可能性もあるわけです。理由がはっきりしないのに、ちょっと会った時の印象だけで刺してしまう、それが今かなと思ったのです。
  でも、それは障害でもあり、言うしかないという引き金にもなっていくのです。今言わなければとという気持ちになっていくのです。
  今回の作品を撮ってみて感じたのですが、僕はその人の気持ちをただ淡々と追うということだけでは満足できず、今という時代やそこに住んでいる僕らの気持ちという部分に触れたくなったんです。そこでああいう人を出したくなったんですね。自分自身も脚本を書きながら、それが描けたから、最後のあの一言にたどり着くことが出来たんです。確かにああいう人を出すこと、ああいうシーンを描くことはすごく悩んだのですが、自分の中ではあれがあってようやく辿りついた、言えた一言だったんです。

Q:加瀬亮さん演じるああいう人が登場する最初のシーンは彼が酔っ払って道に寝そべる女性から財布を抜き取ろうとするところを西島さん演じるヨースケが見るところです。確か、その時に西島さんは「卑しいと思った」と心の中で呟くのですが、あれはすごく印象的でした。

A:いや「卑しい」ではなくて、えーと何だったかな、悔しいな、そう「哀れだ」ですね。彼はああいう気持ちだったのですが、自分も大して変わっていないのですね。それを見ながら、通り過ぎてしまった。結局、すぐに戻ってきたのですが、でも変わらないと思っているのです。
  現場でも西島さんにはそういう風に彼を見てください、加瀬さんには自分がなんでこういう風に見られなければいけないのか考えて欲しいと指示しました。そして実はふたりは大して変わらないんですよという話もしました。彼らはお互いに鏡のような存在かも知れないんです。一歩間違えれば、自分もああいうことをするし、ああいう風に見下す立場になるかもしれないんです。加瀬さん演じる男の中には、その時に一瞬、そういう風に見られたという怒りが湧き上がるわけです。その怒りが、ヨースケを偶然見てしまったときに甦るんですね。
  僕なりの解釈なんですが、哀れに見られることは相当に辛いことで腹が立ちますよね。ただ、お互いは鏡のような存在ですから、ちょっとしたことで逆にも持っていけるのに、自分が哀れに見られていることだけが残り、気持ちの持って行き場がなくなっしまう。その存在を消したくなってしまうという風に思ったんですね。
  加瀬さんには演じる人物の背景なども話しました。例えば、あれはいつもやっていることではなく、無防備に酔っ払って寝そべる彼女に助けるつもりで声をかけたのに、それでも酔っ払っていることに腹が立って、戒めのつもりでやった行為を見られてしまい、その理由を言葉で説明できなかったかもしれないということなどです。彼は単純に人を刺すのではなく、彼なりの複雑さを抱えているのです。それが見られた、見下されたという持って行きようのない気持ちに繋がり、結果的にはあそこに行き着くのですね。

Q:あの「哀れだ」という台詞には都会のぎすぎすした雰囲気がうまく掴んでいると思うのですね。例えば、ああいう気持ちを抱くことは日常茶飯事なんです。でも、きっとあの10代の頃は抱いていないのはもちろん、考えてもいなかったはずです。その辺の気持ちがこの作品にはうまく捉えられていますよね。

A:そうですね。ヨースケが置かれている息苦しさは、東京に長く暮らしている人にしか分からないものだと思うのです。彼の人生は大きく変わりようもないし、引き返しようもない、もう、それに乗っかっていくことしかない苦しい状況です。それは後半の冒頭で絶対に描くべきだと思いましたし、虎美ちゃんみたいな一晩きり会う子も東京らしく、そこで言われたことにはっとするのもよく分かります。彼の追い込まれている居場所はもしかしたら、ユウにはっきりと言い出せなかったから生まれてているのかもしれません。宮崎さん、西島さんのふたりには余り話さなかったのですが、ふたりにはその17年の空白に付き合ってきた人もいたのですが、満たされない想いを抱え続けていたかもしれません。それは本当に大切な人にあの一言を言えなかったからではないか、そういう感じではないのかなと思いました。

Q:東京にひとりで長く暮らしてきたことのある人間にとっては身につまされれますよね。僕だけかもしれませんが(笑)

A:いや、そんなことないですよ(笑)。僕自身がそうだったんです。自分が自分に見えなかったのって、長く、仕事をしながら東京に暮らしていくうちに、半分自分を殺して過ごすしかない、半分を鈍感な自分としてやっていくしかないという部分が原因だったのかもしれませんね。

Q:今、加瀬さんに対する演出をお話しいただきましたが、前作の『tokyo.sora』では脚本がない状態で撮影を行ったと聞いています。今回はどのような形で撮影を行ったのでしょうか。

A:基本的にはほぼ一緒です。『tokyo.sora』は脚本がないと言っていますが、あるんです(笑)。ただ、書かなかっただけなんです。それを普通の脚本にして普通のやり方でやるということに違和感があったんです。あの作品で徹底したのは出演者に先を見せないということでした。あの6人に共通しているのは東京に暮らしていて先が見えない不安を常に抱えていることです。不安があるからちょっとしたことで嬉しかったり喜んだりも出来るんですね。そんな時に脚本があると先まで読んでしまう、先を予測して現在を作るという風に演じるのが嫌だったんです。作品の中では自殺を考え、実行してしまう人物もいます。特にそういった人たちが、死ぬ人だから彼女の苦しみを分かったように演じるというのは違うと思ったんです。彼女たちは死のうと思ったのではなく、そういう気持ちを奥に隠しつつ、何とか普通に暮らしている。その気持ちがある日、ふと出てしまう。そのために脚本を見せない、現場に台本がないという状況を作ったのです。
  2本目は脚本を書いたんです。シーンの意味をきちんと掴み、そのシーンで一番大事なこと、何を掴まなければいけないかを全て書いた上で撮影に入ったんですが、その方法はうまく行きませんでした。この作品は本当の気持ちを押し隠し、別の話をするという物語ですから、本当の気持ちが出来上がっていないとその台詞は全てがうわべの言葉になってしまうのです。台詞はうわべの言葉なんですが、奥の方に押し隠した好きという気持ちをしっかりと持ってもらうために、脚本を取っ払いました。そして、そのシーンのキーワードとなる言葉をそれぞれの役者に手渡し、そのキーワードを言うのであれば、ここしかないなという、出演者を追い込むようなシチュエーションを作り出し、何を感じるか、何を思うかを本気で考えてもらいました。そこから生み出た言葉であれば、僕も本気で受け止められるけれども、本当に受け止めて欲しい感情を通過してこないときは新たなテイクを重ねていきました。

Q:ではワンカットにはすごく時間がかかったのではないですか。

A:はい。まず、ワンテイクにすごく時間がかかるんです。それは例えば、ギターを爪弾いて、それを聞くだけというシーンでも、映画ではなく、実際にあった時間、30分とかを何がなくても一緒にいるという風にしているんです。それに加えて、作品には入っていない河原に腰を下ろし、一緒に帰っていくというような前後も撮影しています。そういう風に経験をしていくことで、一番初めのふたりとは変わってきますし、一緒に長い時間を過ごすことで相手の気持ちも分かってくるんですね。それが積み重なっていくことが、その人の記憶になっていくのです。最初は苦労をするのですが、そこで何かを掴んでもらったら、時間と共に役としての記憶が積み重なっていくので、僕はそこを頼りに撮影を進めていきます。それが限られた時間の中で、出演者が役柄に近づく方法だと思っています。だから、基本的には大事なシーンは全て順撮りにしています。

Q:今後、撮ってみたいテーマとかはありますか。

A:今、考えています。2本の作品で撮れなかったテーマになると思います。

Q:東京がテーマになりますか。

A:この作品も前半、後半に分かれていますが、東京の人の話なんですよね。東京の人が昔、東京に住んでいたという話なんですよね。後半があるから、前半が大館で撮れたんですよね。東京はやはり自分の基準になりますね。

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映画『好きだ、』は2月25日より渋谷アミューズCQN他 全国順次ロードショー。
作品に関する詳細はこちらで。

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